出演者/スタッフ

≪出演者≫

■楊熾昌(よう・ししょう) / 1908-94年yo

筆名に水蔭萍。詩人・新聞記者。台湾の文壇にモダニズムを導入した先駆者。台南市に生まれ、台南第二中学校(旧制、現在の台南一中)を卒業し、日本に赴いて東京の文化学院に留学した。授業以外の時間はカフェに入りびたり、多くの文学関係者と知り合い、西洋のモダニズム文学が流行する時代の空気にのめり込んだ。詩を作っては『椎の木』『神戸詩人』『詩学』などの日本の雑誌に発表したという。1933年3月、李張瑞や林永修、張良典らと「風車詩社」を結成し、同人雑誌『風車』を刊行した。

1934年に『風車』が停刊して後、父親の遺言に従い1935年12月『台湾日日新報』の記者となって、長く新聞社に勤めた。1938年西川満が主宰する台湾詩人協会(1940年改組して台湾文芸家協会となり、機関誌『文芸台湾』を発行した)に加わる。1947年二二八事件の際には無実の罪で入獄した。

出獄後は『公論報』台南支社の主任を務め、1952年李張瑞が逮捕された後は辞職し筆を断った。1953年台南ロータリークラブ及び台南市文献委員会などに奉職し、1978年には詩人の羊子喬との交流から再び文壇に出て、台南県の「塩分地帯文芸キャンプ」が贈る台湾新文学特別貢献賞を受賞し、晩年になって文壇の高い評価を得た。

 

■李張瑞(り・ちょうずい) / 1911-52年ri

筆名に利野蒼。台南県関廟出身。関廟公学校卒業後、製糖工場で働く父に従って、一家は車路墘製糖工場に住んだ。楊熾昌とは台南第二中学校の友人で、のち日本に留学し、農業大学を卒業した。台湾に戻ってからは、仕事の関係で台南郊外の新化に住んだ。

数多くの西洋文学、プルーストの『失われた時を求めて』の「スワン家の方へ」(山内義雄訳)やゲーテ『若きウェルテルの悩み』などに触れた。のち長く嘉南大圳(だいしゅう)水利組合に勤めた。戦後は国民党の白色テロに遭い、政治事件に関与したとの無実の罪にて、判決書が家族のもとに届く前に銃殺された。

 

■林永修(りん・えいしゅう) / 1914-44年rin

筆名に林修二、南山修。台南県麻豆鎮出身で、麻豆の名家である林家に生まれた。麻豆公学校や麻豆小学校で学ぶ。台南第一中学校在学中に文学の創作を開始した。のち日本に留学し、慶應義塾大学英文科で学び、西脇順三郎に師事した。文学創作は詩を中心とするが、随筆の佳品も多い。作品の多くは『台南新報』や『台湾新聞』に投稿したが、日本留学時期の作品は大学の雑誌『三田文学』や同人雑誌『四季』以外に、台湾の新聞メディアである『台湾日日新報』にも発表した。創作スタイルは日本の「四季」派の詩風に近く、「物に寄せて思いを陳(の)べる」、つまり内面の感情(孤独感、喪失感など)を物に託して語るもので、追憶の感情を捉えて詩にすることを好んだ。象徴主義の感覚(色彩、香り、聴覚)を用いて、心の奥底の感受性や精神的な気分を表現した。

 

■張良典(ちょう・りょうてん) / 1915-2014年cho

筆名に丘英二、椿翠葉。台南県仁徳郷出身。父親は車路墘製糖工場(現在の仁德製糖工場)に勤めており、幼いころから製糖工場の宿舎に住んだ。台南第一中学校在学中に林永修と知り合う。中学卒業後は、台湾総督府台北医科専門学校に入学した。

医専在学中に「風車詩社」が結成され、林永修に誘われて加入し、1935年には「台湾文芸聯盟」にも加わった。医専の仲間十数名と文学雑誌『杏林』を一号のみ共同編集し、また「台北仏教青年会」に加わったという。趣味はスポーツで、テニスや野球、マラソンなど。戦後二二八事件に際し、数か月の入獄を経験。その後台南市の大同路に「良典医院」を開いた。作品は多くはないが詩を主とし、散文詩の方法で書いた。萩原朔太郎の作品から影響を受け、激しく感傷的なノスタルジーを帯びている。

≪スタッフ≫

■黃亞歷 Huang Ya-Liホアン・ヤーリーkantoku

映像と音の関連性、およびそれらの可能性を広げることに関心を持つ台湾のインディペンデント映画作家である。近年、日本植民地時代の台湾に関するドキュメンタリーに関わっている。ドキュメンタリーのリアリティー解釈においては、歴史的な調査と検証を重視。台湾とアジア及び世界との関係を作品に投影することをテーマに制作を続ける。長編映画デビュー作となる本作で、台湾のアカデミー賞といわれる金馬奨最優秀ドキュメンタリー賞を受賞。

■フィルモグラフィー

2010 The Unnamed(35 mm short film)

2008 The Pursuit of What Was(35 mm short film)

2015 Le Moulin